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災厄の詰め込まれた壺を開けてしまったというパンドラの話には続きがあります。

災厄が飛び出て驚いたパンドラが壺の口をふさいだので、「希望」だけは人間の手元に残った、といわれているのです。神が人間をこらしめるために災厄をこめた壺に希望が入っていたのは一見奇妙な感じがしないでしょうか。この点には様々な解釈が提案されてきました。

岩波文庫版のヘシオドス『仕事と日』の当該箇所の注釈では、訳者の松平千秋が、希望は良いものという理解で説明を加えています。たしかに希望自体は良いものとしても、飛び出てしまえば人間のもとから離れるということなので、希望がなくなるという災厄になるのを見越してゼウスが入れていた、との解釈が成り立つかもしれません。

ただし松平自身が、災厄をこめた壺に良いものが入っていたのは首尾一貫しないといわれればその通り、と述べているように、考え始めるとなかなかややこしい問題です。希望が残っているほうがかなわなかったときの絶望が大きい。つまり希望も災厄である。希望があるから苦しい状況に執着して、いつまでも苦しみ続けることにもなる。あるいは災厄を乗り越えた先の希望がなければ、その災厄は脅威とならない。希望が見えるから災厄がより強調される、など、「希望をもつから苦しむのが人間」という、人間の本質を語っている物語でもあるといえるのではないでしょうか。

以上から、「パンドラ」あるいは「パンドラの箱」(前回記事でふれたように本来は「壺」が誤訳)という表現は、「あけてはいけないもの、知ってはいけないこと」の喩えとして用いられ続けています。

管理人が大学でこの話をするときに、「パンドラの箱」という表現が今ではどのように用いられているか分かるような例文を、学生さんに考えてみてもらうことがあります。かつての例でよく覚えているのが、ある大学の女子学生さんの回答で、「兄のベッドの下のパンドラの箱を開けてみる」といった感じの文です。いったい何がそこに…

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