魔女か悪女か、悲劇のヒロインか―王女メデイアの物語(2)

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イアソンとメデイアがイオルコスを去った後を描いた、エウリピデス作のギリシア悲劇『メデイア』のあらすじを見ていきましょう。メデイアたちはコリントスという国に移り住みますが、そこでイアソンとコリントス王女との縁談が持ち上がります。イアソンは由緒正しい家系の英雄。ときのコリントス王に気に入られたうえ、王女もイアソンに恋心をいだき、イアソンは縁談を受けようとするのです。

しかしイアソンには妻メデイアと、その間に生まれた子供がすでに二人もいました。彼は妻の説得を試みます。その言い分は、「コリントス王家とつながることで、子供たちの地位も保証される」というもの。そして、これまでイアソンを助けてきたメデイアに対して、「それは神様の思し召しだから」→意訳:「惚れたおまえが勝手にいろいろやったんでしょ?ね?」と言い放つのです。このようなイアソンの言い様だけ取ると、それはいうたらあかんわ、そりゃキレられるわ、と、こっちがハラハラするけっこうなクズっぷり。

祖国を捨て、愛する男に尽くしてきたメデイアは激怒。そこでまずメデイアは、コリントス王女にその憎しみを向けました。メデイアが得意とする魔術と策謀の見せどころです。メデイアは、イアソンと王女の結婚を祝うふりをして、衣装と黄金の冠を贈ります。二人のことを認めてくれるのだと喜んだ王女は、さっそく身につけるのですが、それらには魔術がかけられており、コリントス王女の身は燃え上がりました。メデイアいわく「これが燃えるような恋やわ!」(そんな台詞はありません)。そして娘を救おうとした父王もろとも、焼死してしまいます。

次いでメデイアの怒りは夫へ。しかしメデイアが夫への復讐のために取った手段はなんと、イアソンとの間に生まれた、我が子たちの命を奪うことでした。メデイアは自らの息子二人を手にかけます。私にも子どもがいるので、その描写を記すことすらためらいます。親ってそういうものですよね。ところがメデイアはやりました。歪んでるかもしれませんが、その憎悪のほどが痛いくらい伝わります。

ドラクロワ『我が子を殺そうとするメデイア』(1862年、リール市立美術館蔵、Licensed under Public Domain via Wikimedia Commons.

子どもたちの死を知ったイアソンが悲嘆にくれるところで、悲劇『メデイア』はエンド。メデイアはその後アテネに渡って再婚(そしてまたトラブルを引き起こすのですが)、イアソンは放浪の末に亡くなったと伝えられています。

神話の物語の大枠は長年語り継がれて伝統化していました。大元の作者というのは定まっておらず、誰が最初に語り出したかわからない。「作った人」がいないのだから、基本的に本当の話、という発想があったのです。ただし、メデイアが我が子の命まで奪うエピソードは他では確認できないので、この点についてはエウリピデスが加えた展開と考えられています。

ところで、古代の演劇では演者は男性だけでした(ギリシア悲劇について、こちらも参照)。彼らは仮面をかぶって様々な役を演じており、女性の役も男性が担っていたのです。後世、英国のシェイクスピア(1616年没)の時代でも、登場人物は全て男優が演じ、特に若い女性役は少年俳優が演じていました。ちなみに、歌舞伎も演者は男性のみですが、そういった男性だけのお芝居の逆をやろうという理念もあって発展するのが宝塚歌劇です。

そもそも『メデイア』が上演された古代ギリシアのアテネにおいて、演者だけでなく悲劇作者や裏方など劇上演に携わるのは男ばかり。はっきりとした記録がないのですが、観劇したのも男性だけだったかもしれません。女性が外出するのは特別な機会に限られていたような社会ですから。悲劇は、当時の社会的・文化的活動が男性のみによって支配されていたことを浮き彫りにしているのです。

今でも演劇が上演される、アテネのヘロディス・アッティコス音楽堂。(Photo by Enric Domas on Unsplash. )

こうしたことを思い起こすと、我々と当時の男性観客はかなり感覚が違い、イアソンを責めるような見方や「いてまえメデイア!」という共感は基本的に無く、「女ってやっぱり怖いですなあ」など、男性たちだけでやいのやいの言っていた可能性もあるでしょう。現実には家で妻が強いといったことはいつの世でもあったでしょうけれど。「ちゃんと稼がんかい」と哲学者ソクラテスを叱咤していた悪妻の伝説もあることですし。

ともあれ、この劇からは歪んだ女性観もうかがえます。「女性は悪事に巧みで、人に害をもたらそうとするときには身体的な力が弱いからこそ毒薬(魔術の一環)のような手段を用いる」と強調されているのです。古来、男性優位の社会においては、男性との対比の強調から女性にはネガティブな要素が押しつけられやすい一方で、「男性にはできないことを女はする」という神秘のイメージもときには絡んできます。そこには自分たちと異なる存在である女性に対する男性側の恐れも潜在しているかもしれません。そして、男性による社会や文化の支配こそが、メデイアを、そしてメデイアを一つの原型とするような「魔女」のイメージを生み出してきたといえるでしょう。現代では魔女はキャラクター化され、ときにかわいらしく描かれますが、魔術を女が用いるというイメージは根が深いのです。

ちなみにエウリピデスは劇中で女性を多く描いていて(先述のように演じるのは男性ですが)、比較的女性に共感・同情的だったのではないかとされることもあれば、メデイアのように偏見に満ちて女性を描いているのだから女性嫌いであったと紹介される場合もあります。本人に聞かない限り、どっちとも解釈できるかもしれません。よくいえば、そういうところは作家としての懐の広さ、演出の幅として評価されるべきでしょうか。→続く

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