アトランティス=ミノア文明説(4)

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ミノア文明説で万事解決というわけではない、という話の続き。

さらにポイントになるのが、アトランティス伝説に語られるのと異なり、実際のミノア文明はサントリーニの大噴火によって「一昼夜にして」滅亡したわけではないということでしょう。

ミノア文明についての以降の発掘調査で、宮殿の床の下から火山灰や軽石が発見されました。つまり、噴火のあとに宮殿は存在していたわけです。サントリーニの大噴火はクレタ島にたいへんな被害を与えたのでしょうが、それによって「一昼夜にして」ミノア文明が滅んでしまったというわけではありませんでした。

また1980年代、サントリーニの遺跡の火山灰のなかから見つかった植物をもとに、放射性炭素年代測定(生物の遺骸に含まれる放射性炭素をもとに年代を測定する方法)が行われました。すると、その植物が火山灰に飲み込まれてしまった年代、つまり噴火が起こったと考えられる年代は、前1600年頃と推定されたのです。それは、クレタの宮殿が破壊され、ミノア文明が崩壊する1450年頃より100年以上前。

さらに、米国のカリフォルニア州にある樹齢4000年のイガゴヨウマツの年輪分析では、前1628年の年輪に霜害が認められました。サントリーニほどの火山が噴火した場合、噴煙がかなりの距離まで浮遊し、太陽光を遮って気温を低下させるなど、世界的な規模で影響を及ぼします。よって、遠く離れたカリフォルニアの霜害が、サントリーニ噴火の有力な証拠なのです。

また、グリーンランドの氷冠の分析から、やはり同じ時期の層に、酸性の層が存在することがわかりました。氷冠は年輪と同じように、雪が毎年積み重なっていくので、硫黄に富んだガスから形成された硫酸の影響が、その時期の層に認められたと考えられます。こうして現在では、噴火の年代は前1628年頃と見るのが有力です。

なお、噴火についての研究進展について詳しくは、ワルター・L・フリードリヒ『海のなかの炎―サントリーニ火山の自然史とアトランティス伝説』(郭資敏、栗田敬訳、古今書院、2002年、原著1994年)という訳書があります。

ミノア文明の崩壊は、直接的には本土のギリシア人による前1450年頃のクレタ侵入と略奪によると考えられています。アトランティスのように一昼夜で滅んだわけではなかったのです。

現代のクレタやサントリーニがアトランティスとのつながりを積極的にアピールしてもいるように、世に浸透したアトランティス=ミノア文明説なのですが、「大噴火によってクレタ島が壊滅的被害を受け、ミノア文明が終焉を迎えたことが伝説のもとになった」という解釈の根幹は、以上のように否定されてしまったことに。

噴火で滅亡しなかったクレタではなく、サントリーニこそがあくまでアトランティスのモデルなのだ、という主張もありうるでしょうが、そうすると島の大きさの面であまりにプラトンの記述と異なります。しかもこの解釈は、「年代は数字の記録間違いによるのではないか」、「ヘラクレスの柱はジブラルタル海峡ではなく、ギリシア本土のペロポネソス半島南端の二つの岬を指すのではないか」というように、すでに推測を積み重ねたうえでの、さらなる推測です。こうした現実の大災害が物語において参照された可能性は管理人も否定しませんが、プラトンが伝えた通りのアトランティスとは異なる要素も多く、これでアトランティス実在が示され解決、とは決してならないだろう、ということです。

一方、大災害自体は実際にあったという事実は、伝説との齟齬など些末なことと思わせ、圧倒的なリアリティを感じさせたともいえるのではないでしょうか。またそれは、火山・地震大国の日本でこそ、よりいっそう共感できるところでもあると思います。また機会をあらためて述べていきたいですが、日本はアトランティスはじめ「失われた大陸」の物語と関連書情報に関心をとても強く示してきました。その背景には、大災害への意識があると思うのです(またいつかこの続きをまとめます…)。

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