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怪物・想像上の生物についていくつか記事をまとめてきたので、ここで「怪物にはどんな意味があったのか」ということについても少し考えてみたいと思います。

まず挙げられるのは「怖い」イメージでの教育的役割でしょう。いい子にしないと怖い怪物がやってくるぞ、と子供に言いきかせたり、危険な場所に近づかないように、あるいは危険な場所ではよく注意するように、怪物が潜んでいるぞと子供に告げたり、といったように。

たとえばラミアという恐ろしい「女吸血鬼」がいます。ゼウスに愛された女性でしたが、生んだ子をゼウスの妻ヘラに殺されたことから、子をさらう怪物になったのです。のちに人間と蛇の合わさった姿でイメージされるようになりました。地理学者ストラボン(前1世紀)は、「我々は子供を励ますために楽しい物語を語り、いましめるために怖い物語を語る。たとえばラミアのような……」と言及しています(『地誌』1.2.8)。こうした子供向けの話は、乳母などが語り聞かせたようです。

もちろん怪物イメージは子供向けの話というだけではないでしょう。それは人生において出会うであろう、様々な困難を象徴しているとも考えられます。

神話において英雄は、成長過程で怪物に出会い、退治します。そうした物語には、人間の成長、自己実現が投影されているのです。逆にいえば、こうした要素こそ、神話のように息の長い、影響力のある物語に昇華していく条件の一つといえるでしょう。

またそこには、語り継いだ人々の世界観が表現されています。怪物の出自をたどっていくと、多くの場合、大地や海に至るので、怪物イメージには「自然の驚異」が強く影響を及ぼしていると考えられます。この点では、シチリアの火山に封印されたというテュフォンなどが示唆的。

ギリシア人は、神々も人間の姿をしていると考える「人間中心主義」的世界観をもっていました。そうしたなかで、人間とその人間が敬い崇める存在の対極が、怪物。怪物とは、人間と文明を脅かすもの全ての象徴でもあったのです。

こう見てくると、文明(=人間的)─野蛮(=動物的→怪物的)という二項対立の発想が見てとれるわけですが、ことはそう単純でもない。文明的・人間的であるということは社会的であり、日常的。それに対して野蛮はときに非日常的「驚異」、普通をいい意味で超えた力にも転化しうるわけで。そこで、賢者と見なされたケンタウロスのケイロンのような存在も思い描かれたのでしょう。

さらに文明─怪物の対比には、ときに男─女の対比も重なります。古代ギリシアでは「人間」や「市民」とは基本的に男のことでした。よって女性は人間の文明世界と対比される野蛮や自然のイメージと重ねられるのであり、ひいてはメドゥーサなど女の怪物というのもいるわけです。男性に物理的な力で劣る女が恐ろしい怪物イメージとも結びつくのは、このように男性たちが自己の反対のイメージとしていろんなものに「女」の属性を付与したことによります。一方で「女性的」と見なされた領域(出産など)では女神が崇められもしたわけですが。

さて、自然を飼い慣らしたかのような現代においては、恐ろしさとは無縁の「想像上の生物」が日常にもあふれ(昨今の「ゆるキャラ」はもちろん、大人でさえも魅了される様々なキャラクターなど、その例にはこと欠かないでしょう!)、「怪物」でさえも、ときにかわいらしいキャラクターと化す。それは、万物を支配し恐れない人間の自負が現れている一面、といえるのかもしれないですね。

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