ムー大陸の浮上(2)

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ムー大陸について語ったチャーチワードは、その情報をどうやって得たというのでしょうか。彼が語るところによると、自身が英陸軍兵士として、英植民地であったインドに駐留していた1868年のことです。インドは飢饉に見舞われていました。彼が救護活動の一環としてある寺院の高僧の手助けをした際、古い浮彫文字の解読をチャーチワードが試みたことがきっかけで、彼は高僧と親しくなり、古代文字について教わるようになります。そして高僧は、寺院に密かに保管されてきた聖なる粘土板文書を、チャーチワードの好奇心に応じて見せてくれたというのです。

それが、太古の象徴と文字「ナーガ」で刻まれていた『ナーカル文書』でした(後述するようにナーカルは伝道者たちの呼び名)。詳しい内容は高僧も知らなかったのですが、二人は力を合わせて解読に取り組み、二年以上かけて内容を理解します。

文書は、ムー大陸の聖典『聖なる霊感の書』の写しであり、世界の成り立ちや、人類が最初に現れた太平洋の陸地ムーの歴史について記されていました。ムーの民は巨大国家ムー帝国を築き上げ、さらに世界中に進出して植民地を建設したことで、世界の文明が成立・発展したと、そこには語られていました。その文書は、ムーから文字や宗教、技術を教えるために各地に渡った聖職者たち、ナーカルによって残されたのでした。

しかし記録は欠けていたので、チャーチワードはムー大陸の情報を他にも探し続けたと述べています。そしてインドでの「発見」から50年以上も経った1920年代、古代文明の研究の進展もふまえ、彼はムー大陸論を展開します。

そうした「進展」の一つとして、当時公表された『ニーヴン石版文書』というものがあります(チャーチワードは1931年の著書以降、これを重視しました)。これは、スコットランドから米国に渡り鉱物学者として活動していたウィリアム・ニーヴン(William Niven 1850~1937)が、メキシコシティ郊外で発掘したという、謎の文字や記号が刻まれた2,500枚以上の石板文書です。

ニーヴンは彼の名にちなんで命名された「ニーヴェナイト」はじめ4種の鉱物を新発見したことで著名ですが、考古学にも強く関心を抱いていました。ただしこの文書の内容は不明です。チャーチワードはそこにムー大陸の情報を見出したと主張するのですが、刻まれた絵文字や記号等の意味が他の者にとっては定かではありません。当時から偽造物ではないかとも考えられ、重要視する者はいなかったのです。

ムー大陸の記録を補完するものとしてこの石板文書に注目したチャーチワードは、文書の多くは古代ウイグル文字で記されていると主張しました。この場合のウイグルとは、ムー帝国の植民地の一つ、「大ウイグル帝国」のこと。このウイグル人は後のアーリア人の祖先で、白人だったとも彼は述べています。これらの文書も件の『聖なる霊感の書』の一部で、世の創成や宇宙の原動力などが記されているとも彼は解説しました。

こうした情報と解釈をふまえつつ、世界各地で伝えられてきた大災害の物語や、各地の古代文明において用いられた様々なシンボルの共通性も、原初の文明の存在と影響を示す証左として、チャーチワードはムー大陸論を展開していったのです。→続く

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