ムー大陸の浮上(5)

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「ムー大陸の話はジェームズ・チャーチワードという人が語り始めた」とされるのですが、実は「ムー」という名の出典についてはチャーチワード以前に遡るといえます。しかし、このことでムー大陸の実在性が示されるのではなく、これがむしろムー大陸をさらに幻にしてしまうのです。

チャーチワードよりも先に、「大昔にムーが大災害によって海に沈んだ」と主張したのが、19世紀フランス生まれの聖職者にしてマヤ研究家シャルル・エティエンヌ・ブラスール・ド・ブールブール(Charles Étinenne Brasseur de Bourbourg 1814~1874)でした。彼は、マヤの文書として残された数少ないものの一つ、『トロアノ絵写本』の解読を試み、そこには火山の大噴火によって海に没した陸地の話が記されていると理解したのです。その中によく出て来る2文字の組み合わせがあったのですが、それらは推定されたマヤ語アルファベットでMとUに似ているということで、ブラスールは壊滅した陸地の名を「ムー」と推測し、これをアトランティスの別名と考えました。こうした考察と発表がなされたのが、1860年代後半から70年代初頭にかけてのこと。

『トロアノ絵写本』解読のために参照されたマヤ語アルファベットは、16世紀後半、メキシコでキリスト教を布教した聖職者ディエゴ・デ・ランダのまとめたものでした。マヤ文字は複雑な絵柄が組み合わさったような、とても独特な文字です。アメリカ大陸に渡って来たヨーロッパ人には、これが異質であやしげなものとも見えました。スペインがユカタン半島を支配した時に派遣されていたデ・ランダは、マヤの多くの古文書を集め、悪魔の書と見なして焼いてしまったという人物。『トロアノ絵写本』はその焚書を逃れた貴重な記録の一つでした。しかし彼の暴走は批判もされましたし、自身にも後悔があったのでしょうか、彼は現地の情報をまとめ、『ユカタン事物記』を執筆(1566年頃)。件のアルファベットはこの書に収録されています。

ところが、デ・ランダの「アルファベット」は、音をヨーロッパの言語に合わせて列挙したもので、のちのマヤ語理解に貢献することにはなるがそれによって正確な文章解読にいたるものではありませんでした。つまり、それを参照していたブラスールの解読内容は、かなりの部分を想像に依拠した「誤訳」であり、「ムー」というのも滅んだ陸地を指した言葉ではなかったのです。それからマヤ語の正しい解読は進み、『トロアノ絵写本』はマヤで高度に発達していた天文学にも関係する占星術の書であることがわかっています。

だが、この話はさらなる展開を見ます。英仏海峡のジャージー島(英国領)生まれで南米・北米などを遍歴し、写真家・アマチュア考古学者として活動するようになったアウグストゥス・ル・プロンジョン(Augustus Le Plongeon 1825~1908)も、こうしたマヤの記録に興味を抱き、想像をさらに加えて太古の歴史を描いたのです(『11500年前、マヤ族とキチェ族の神聖な秘儀』1886、『ムー女王とエジプトのスフィンクス』1896)。彼は、「ムー」とは中米の東の失われた陸地にあった国の女王名で、ムー女王は争いから逃れてエジプトにたどり着き、古代エジプト文明の祖になったとまで語りました。こちらも同様に、マヤ語のしっかりした解読がなされる前の想像による解釈であり、正しい内容ではないのです。

チャーチワードは詳しく参考文献を挙げていませんが、「ムー」という名称からしても、先行する2人に由来する情報を参照していると思われます。しかし、先行者のどちらも「ムー」をアトランティスの別名のごとく理解し、少なくとも大西洋にあった陸地という前提で考えていましたし、名称含め解読が正確なわけではないとなると、太平洋へと位置を移したムー大陸はますます幻の存在なのです。

なお、こうした論点含めて、ムー大陸の実在想定に対する批判・懐疑的意見の参考文献は続く投稿記事で挙げさせていただきます。→続く

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