日本における最初期の「ムー大陸」紹介(2)

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前掲『サンデー毎日』記事の執筆者、三好武二(1898~1954)について補っておきます 。青森県に生まれ、1920年(大正8)に東京高等工業学校(現・東京工業大学)応用化学科を卒業、日本酷酸製造株式会社に入社するがすぐに退社。朝鮮総督府道技手などを経てから朝鮮総督府嘱託として欧米の商工業制度調査のために、南洋や欧州各地を視察。1928(昭和3)年に帰国すると大阪毎日新聞社入社、学芸部に勤務。1934年に退社、文藝春秋社支那特派員などを経て1939(昭和14)年に報知新聞入社、編集局次長兼外報部長学芸部長論説委員にもなっています。1941年に退社、蒙古自治邦政府弘報局長などを務めた。そして戦後は第一科学社で編集企画に携わったといいます。

※三好の経歴については、酒井大蔵『日本人の未来構想力―三好武二と「五十年後の太平洋」』(サイマル出版会、1983年)参照。酒井が三好武二に興味を抱いたのは、1926年(大正15)に大阪毎日新聞と東京日日新聞が募集した、「五十年後の太平洋」を課題とする懸賞論文で、324編中の一等に選ばれた三好の論文を読み、その卓越した内容、予測的思考に感銘を受けたためだとか。三好論文も同書に収録。酒井著書(そして上記の情報)で言及している論者の経歴や、諸資料の多くは、先述のブログ「神保町系」にご教示をいただいております(合わせて前掲の藤野にも依拠)。拙著でも述べておりますが、この場を借りてあらためてお礼申し上げます。情報更新もありうる当ブログの方もぜひご参照を。

三好の記事(先の記事で既出)は基本的にはチャーチワードの『失われたムー大陸』の紹介ですが、「歴史の攪乱者MU」では、太陽を象徴とする「日のもとの国」ムー大陸と日本との関連が示唆されています(日本とムーを関連づけるにあたって、太陽が象徴であることや、日本の日章旗・旭日旗が以降もよく着目されるようになります)。また、文明の源流が太平洋、すなわち西洋に対しての東にあったとするならば「MUが従来の歴史系統をかき乱し、欧州中心主義を東洋―太平洋に奪略しただけでも万斛の快味を覚える。白人優越観の破産期が到来したのだつた」とも。チャーチワード自身にそんな意図はなかったのですが、この日本での最初期の紹介時点ですでにムー大陸への日本的関心が見えているところは興味深いといえます。そうした「日本的関心」や、その後のムー大陸の日本的偽史への影響など、あらためて別の機会にまとめていきます。

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