情報更新: 日本における最初期の「ムー大陸」紹介(1)

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本サイトの関心対象の一つである「ムー大陸」についての伝説。それは、1920年代~30年代にかけて、米国の作家ジェームズ・チャーチワードによって詳しく語られたことで世に広まったのですが、その伝説がのち日本に大きな影響を及ぼしていくことになります。いつ頃、どうやって日本に情報が紹介されたのか…といった話が拙著『アトランティス゠ムーの系譜学〈失われた大陸〉が映す近代日本』(特に第3章)の焦点でもあるのですが、ここではそれについてあらためて記録・紹介しつつ、必要に応じて更新情報も蓄積できるよう準備しておきたいと思います。

日本では、1932年(昭和7)の6月19日、『大阪毎日新聞』において「噴火のため海底へ没した文化発祥の花園『ム』大陸奇談」と題し、チャーチワード(紙面ではチャーチ・ワードと表記)の主張を紹介した記事が最初期の例ではないかと思われます。

ここで、情報の更新です(2023年8月4日)。後述しますブログ「神保町系オタオタ日記」管理人さまからお知らせをいただきまして、さらに以前、1926年(大正15)2月にムー大陸について日本の雑誌(『旬刊写真報知』)で紹介されていたことが判明しました。詳しくはこちらで。なお、以下の記述はそれ以前(1926年の雑誌情報を私が知る以前)に公開したままにしてあります。

※なお、ムー大陸言説の伝播、影響については藤野七穂「偽史と野望の陥没大陸」(ジャパン・ミックス編『歴史を変えた偽書』64~89頁)がおおいに参考になります。拙著および本記事では、その単なる繰り返しにならないよう省いた部分があるので、ご興味のある方は藤野論考も参照していただきたいです。そして、ニックネーム「オタどん」によるブログ「神保町系オタオタ日記」(https://jyunku.hatenablog.com/)にも、関連事項について詳しい情報紹介や考察があり、たいへん参考になります。こちらもぜひどうぞ(前掲の情報更新もこちらのブログが出典です)。

そして、前掲の『大阪毎日新聞』記事です。もちろん当時を除いたうえで、「ムー大陸情報の日本での受容」という観点からこちらを確認して紹介できたのは、もしかすると『アトランティス゠ムーの系譜学』(および本記事)が初めてだったかもしれません(管見の限り、これまでのムー大陸論考や記事で、前掲『大阪毎日新聞』の記事を直接扱っているものは見たことがありませんでした。ただし、新聞でムーの記事を見たらしい当時の言及が他にあったので、あたりをつけて調べてみたところ、この記事に行き当たったというわけです)。

記事執筆者は不詳なのですが、この後、『サンデー毎日』同年8月特大号にムー大陸の記事を執筆する三好武二は大阪毎日新聞に勤務していたので、彼が関わっているのかもしれません。ただし、新聞の方では『ム』大陸とか『ム』の国と表記されているのですが、次に見ていく三好の『サンデー毎日』記事ではMUまたはミユウ(ミュウ)とされている点が異なります。あるいは、ムー大陸についてすでに別個に関心を寄せていた者たちがいたと見るべきでしょうか。

ともあれ、続いて『サンデー毎日』においてムー大陸が紹介されます(これまでは、以下の『サンデー毎日』記事が最初期の例として強調されてきました)。三好武二「失はれたMU(ミユウ) 太平洋上秘密の扉を開く」(『サンデー毎日』昭和7年8月特大号)、「歴史の攪乱者MU MUの面影」(同誌10月2日号)の二編です。ちなみに、記事を増補し、チャーチワードの主張をより詳しく解説したのが、三好武二「消え失せたMU大陸」(『世界の処女地を行く』信正社、1937年)。

なおここで、ギリシア文字の「ミュー」を意識してミユウ(ミュウ)と発音・表記すると三好は述べており、日本では以後、その三好の影響もあったのか、「ミユ(ミュ)」「ミユウ(ミュウ、ミュー)といった表記が見られることになるのだが、チャーチワードが著書で発音をMooだと述べていまして、実際の発音・表記で正しいのは「ムー」ということになります。→続く

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